日記のようなエッセイのようなものを書き始めて15年くらいは経つのですが、ここ数年は精神がまいってしまうとタイトルが一文字になる率が上がります。

形式美にしようと思っていた書き方すら忘れてしまう。過去の記事を読み直せば思い出すことが出来るかもしれないけれど、一度でも忘れてしまった形式美にはそこに込めようと思った美しさ(と、読んでいる私のこだわり)の形が変わってしまっている気がして、忘れたままでもいい気がしている。

こだわりなんてものは、いらないと言えばいらない。凝り性でこだわりが強いと生きにくいのは肌で感じている。なあなあでいられないのは社会性の欠陥なのだろうか、分からないし誰にも何も言われたくないから考えないことにした。

考えない様にすることが増える度に、社会性の低さや精神の弱さを自覚する。大人になれば生きやすい環境を選べると思っていたけれど、選ぶためには生きやすい環境を言語化して行動に移すための勇気が必要になるから結局は自分が頑張るしかない。でも誰かに強要される頑張りじゃないから幾分は気楽に感じる。

いつ死ぬか分からないのだから、後悔がないように動くことが定石なのではないか。いつも最善の手を出すことは出来ないけれど、考えることを辞めなければ諦めなければどうにかほど良い形に収まってくれるのかもしれないから。

今年は節目に感じることが多いって過去に書いたっけ? 仕事の面でも家のことも健康のことも、自分の気質のことも、今までのやり方では通用しなくなってきていることが増えた。頭打ちが見えてきたというか。全てをやるには時間も体力も気力も足らないことを理解した。

たった一つがあればいいと思っていた10代の時の考えはあながち間違いでもなかったのだろう。10代の時にその「たった一つ」を見つけられてよかったと思う。努力するのも苦じゃなくて、そのたった一つは私を二度も救ってくれたのだから、私は幸運なんだと思う。これほど好きなものに出会える人もそうそういないだろう。これからの時間は文学や物語に時間を費やそうと思う。

私は心も身体もそこまで強くないし、現に今週は毎日体調が悪くて金曜日に仕事を休んでしまった。電車のアナウンスや車内の臭いや人の多さに気持ち悪くなってしまった。普段は大丈夫なのに。先月も体調不良で休むことが多くて、迷惑ばかりかけてしまっている。やはり一時間の電車通勤は私にとって負担が大きいのかもしれないし、女社会で働くことの苦手意識は全然薄れない。とりあえず今年は上手くいかない。仕方ない。

小説を書いていると、外側と内側の境界線があやふやなになってしまう。感受性が全開になり、いつもより全ての刺激を受け止めてしまうから感情の上がり下がりが激しい。こうなると、私は本を書こうとしない方がマシに生きられるのではないかと考えてしまう。本と出会わなければよかったとたまに後悔する。小説を書かなければ、深く考えて心の内側にもぐる必要もないし。

ここまでつらつら書いていて思ったのは、生きるのが下手くそすぎたことです。最近は下手くそが加速し体調不良で臥せっていたら、部屋の火災報知器の交換に管理会社が来ることを憶えていたのに部屋を片付けることも洗濯を畳んどくこともできなくて、ワンチャン管理会社のおじさんにパンツを晒してしまった説もある。いや、ほんと己を律せないのは破滅への下り階段だと思いました。ちょっと無理でした。いや、ほんとに。

こんなようわからん奴も、他の人間もどうせ80年後には死んでるやつの方が多いだろうからあまり細かいことを気にせずいようと思いました。勝負下着じゃなかったのでセーフ。セーフじゃないわ。還るね

ブログランキング参加中

クリックして応援して頂けると喜びます(*'ω'*)

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村
人気ブログランキング

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です